わたしのはなしの旅4


昨日、3/25(日)Q2で、無事第2回はなしの旅「あたまやま」が終わりました。
今まではわたしがインターネットを使って調べて考えてただけですが、
わたしのはなしの旅
わたしのはなしの旅2
わたしのはなしの旅3
自分でお話を咀嚼して台本を書いて絵を描く東野さん。そして、インドで共に生活し、自らも絵を描く高濱浩子さんのおはなしは、とても興味深く、お二人のお話を聞いた今わたしが感じたことを書こうと思います。

わたしが考えていたあたまやまは、何もないとか。共に生きていくこと。とかそういうことだったわけですが、
ひろこさんが「あたまやま」についてこんなことをおっしゃってました。
Y字路に来て、こちらに行こうと選んだことで、じぶんの環境がガラリと変わり変化することがある。そして、そのことが結果じぶんの中に帰ってくる。旅のようなおはなしだ。
というようなことをおっしゃってました。わたしは「はーそうかー」と思いました。最後、じぶんのあたまの池に身を投げるということは、じぶんに帰ってくる。ということと感じていたんだ、ひろこさんは!とじぶんになかった発想にひざを打ちました。
わたしは、その身を投げるということで、「結末」として捉えていたけれど、ひろこさんは、「じぶんのあたまの池に身を投げること」その意味をさぐっていたのかもしれない。
わたしには、その発想なかったー。と思ったのです。

たとえば、じぶんが猪とか狩られる動物で、山で生活しているとして。時々ハンターが罠を仕掛けてくるわけですよ。そんで、わたしはふごぐごと、食べ物ないかなーとかぼーっとしてたらすぐ罠にかかって、人間に食べられてしまうわけです。けど、あっ、このへんは怪しい気配がする!ここは避けようとか、色んな感覚を研ぎ澄ませていれば、わたしは罠にひっかからず、食べられることもなく、山での生活を続けることができるかもしれません。
気の持ちようで、食べられるか、生き残るか。まったく違う未来がひろがっているのです。そんなことを思いました。

はーなるほどです。なるほどです。

こうなると、東野さんが、「あたまやま」は「野生」や!とおっしゃる意味がわかるような気がする。
すごい!


ここで思ったのは、ひとつのお話でこんなにたくさんいろんなことが考えられて人によって色んな捉え方があるお話ってすごいですね!なんておもしろいんでしょう。どちらが正しいとかなくて、色んな感じかたがあっていい。そんな自由なお話の「あたまやま」不思議でおもしろい。怖くて何もない。


こんなお話に出会うきっかけを与えてくれたはなしの旅。高濱浩子さん。東野健一さん。に改めて感謝しています。